第3話「気付き」だけの環境教育リーダーの行く末

「気付き」に期待しすぎた環境教育への警鐘

第1話と第2話で,知識だけ高まって,意識や行動に反映しない環境教育の問題について書きました。環境教育の成果について「実際に環境保全に行動したか否かで評価される」という言葉がある※1ように,学んで環境に関する用語を知っている人を増やしただけでは「環境教育が成果をあげた」とは言えません。それについて,第2回で、環境教育における「気付き」の大切さに触れ,「気付き」があることで、知識を行動に活かす「知恵」が生まれるとも述べました。
一方「気付き」に期待しすぎた環境教育への警鐘もあります。(社)日本ネイチャーゲーム協会理事長の降旗信一氏は、「ネイチャーゲームでひろがる環境教育(中央法規2001)」のなかで、「『環境教育の役割は、気付く機会を提供する』ということに期待しすぎた傾向が、ネイチャーゲーム実践者側にもある。」と述べています。この書籍が出版されたのは15年も前ですが、今でも思い当たることが多々あります。

いつしか消えていった人たち

日本ネイチャーゲーム協会理事長の言葉を引用しましたが、決してネイチャーゲームを問題視しているわけではありません。ネイチャーゲームそのものは体系だった奥の深いプログラムです。降旗氏が指摘するようなネイチャーゲームの指導者資格を持つ人についてはわかりませんが、「自然系の環境教育リーダー」に目を広げた場合、野外遊びやレジャーと環境教育の違いを理解していない人を多く見てきました。
また、前掲の「ネイチャーゲームでひろがる環境教育」を読んで以降、「自然系の環境教育リーダー」を目指す人たちを見てきた印象では、「自然の素晴らしさを紹介すれば環境教育」や「気付きの場を提供するのが環境教育」と思っていた人たちは、「いつしか消えていった」「消えるのも早かった」と感じます。
さらに言えば、生物や自然について知識豊富な人で、「環境教育=理科の一部」と思っている(ような)人も、時々見かけました(今でも見かけます)。それだけ、環境教育がどのようなものか認知されていないのかもしれません。

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上辺の理解だけの人は結局消える

「自然系の環境教育リーダー」を目指して、いつしか消えていった人たちを思い出すと、レイチェル・カーソンは知っていても、「センス・オブ・ワンダーの著者」「自然の素晴らしさを紹介した人」としか理解していなかった人も多かったと思います。ご存知の通り、レイチェル・カーソンは「沈黙の春」などで、有機塩素系農薬による環境破壊を広く社会に訴え、農薬メーカーから猛烈な攻撃を受けながらも自身の詳細な調査結果をもとに一歩も引かず、アメリカ合衆国だけでなく、多くの国の環境政策に影響を与えた人です。
上記の「消えていった人たちとレイチェル・カーソンの理解」の関係は、あくまで私の印象です。ですが、上辺の理解だけでは、何事も通用しないということだと思います。

自身や自分たちのプログラムが担う役割の理解

第2話で、「知識だけを提供しても、環境意識を高めたり、行動に結びつけるのは難しい」と書き、「気付き」や「感じること」の大切さを紹介しました。しかし「気付きの場の提供」が環境教育のすべてでは決してなく、あくまでそれは入り口・きっかけです。その後の知識の習得や情報の入手が,あわせて重要であることは言うまでもありません。
もちろん、1人のリーダーや個別のプログラムで、全てのステップをカバーできるわけはありません。環境教育の全体像を理解して、自身や自分たちのプログラムが担う役割や位置づけを理解し、他の人たち、グループとの協力がとても大切だと思います。このような理解が広がることを願います。
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※1 「3R・低炭素社会検定公式テキスト」ミネルヴァ書房(高月ら2008)、3章11項「環境教育」より

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