23年前の阪神淡路大震災、ある外国人選手の行動

フリオ・フランコを覚えていますか

1995年の1月17日、忘れもしない阪神淡路大震災が発生しました。それから23年。随分と時間が経ち、まちの外観だけは、すでに元通り以上になったような感じを受けます。今回は本ブログのテーマから外れますが、今から23年前に発生した阪神淡路大震災に関連したことを書きます。

この年、千葉ロッテ・マリーンズに、フリオ・フランコという外国 人選手が入団しました。アメリカメジャーリーグで首位打者を獲得するなど、かなりの実績をあげた選手です。彼は来日前に発生したこの大地震に心を痛めていました。毎年オールスターゲームが開かれる8月、プロ野球のゲームが中断する時期があります。その時、彼は日本に来ている外国人選手と彼の思いに賛同する日本人選手を集めて臨時の2チームを つくり、福岡ドーム(現ヤフードーム)を借り切ってチャリティ試合を催し、経費を除いた収入を被災者支援に寄付しました。

試合後のインタビューでフランコ選手は、「震災の被害の大きさに心を痛めていた。自分は背番号21を付けている。この番号は自分が尊敬するロベルト・クレメンテ選手と同じだ。今自分はクレメンテに少し近づけたことを誇りに思う。」などのことを言っていました。

ロベルト・クレメンテ賞と、彼の名を冠した賞の創設

ロベルト・クレメンテとは、アメリカ・メジャーリーグで1955〜1972年にかけて活躍した選手で、首位打者を4度獲得し3,000本もヒットを打った大 選手です。ですが、そのことよりも別のことで有名な人です。プエルトリコの貧しい家に生まれた彼は、苦労してメジャーリーガーになりました。一流選手になった後も故郷プエルトリコの子どもたちに野球の道具を贈る活動を続けていました。

そんな時、1972年 12月にニカラグアで大地震が発生し、その被害に彼は心を痛めました。地震発生からすぐ支援物資を集め、飛行機をチャーターし、自ら乗り込んで被災地に向かいまし た。ですが、そんな彼に悲劇が待ち受けていました。支援物資を積んだ飛行機がエンジントラブルで墜落し、1972年12月31日、38年の生涯を終えまし た。

彼の死を悼んだメジャーリーガーたちは、彼の遺志を継いで何かできないか考えました。そのひとつが「ロベルト・クレメンテ賞」の創設で した。これは、もともと「コミッショナー賞」という名で、メジャーリーグ機構が創設した賞で、その一年、最も社会貢献した選手に贈られるものでしたが、 「最もふさわしい名称にあらためる」とのことで、クレメンテを冠した名に改称されたのです。

今では、この賞はメジャーリーガーたちにとってたいへん栄誉な賞と受け取られ、この賞がもらえることを、とても名誉に 思っています。また、多くの中南米出身選手にとって、クレメンテが付けていた「21」は、あこがれの背番号になっています。

フリオ・フランコはクレメンテにあこがれるだけでなく、来たばかりの日本の地で、震災被災者支援を実践してくれました。そのことに強い感銘を受けたことを今も覚えています。

ダグラスDC-7(3)

《写真は、ロベルト・クレメントが墜落死した飛行機と同型機ダグラスDC-7(ただしプラモデルの箱、墜落機とスイス航空は関係ない)》

1995年1月の阪神淡路大震災に話を戻すと、その当時、私が所属していた環境市民は、数ヶ月間、神戸に臨時出張所を設けて現地での被災者支援や、京都で支援物資を集めて現地に送るなどのことをしていました。

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